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人物名

人物名角倉了以 
人物名読みすみのくらりょうい 
場所洛西嵯峨角倉  嵯峨二尊院 
生年 
没年 

追記
人物名息玄之 
人物名読みそくげんし 
場所 
生年 
没年 
本文

光好、姓は源、氏は吉田、後に角倉と称す。小字与七といひしが、後了以と改む。家系、羅山の作碑文に委しければ略之。 母は中村氏。天文二十三年甲寅に生る。天姓工役にたくみ也。慶長九甲辰歳、事により美作国にゆき、和計川の舼船をみて、百川すべて舟を行べしと思ひ、たゞちに嵯峨にかへり、大堰川を泝り、丹波ノ国保津にいたるに、湍石多くしてはつかに筏のみかよへれど、猶舟すべきをしりて、翌乙巳歳、其子玄之を江戸につかはし是を乞しむるに、山丹二州の幸なれば、すみやかになすべしと許給ふ。於テ是ニ十一丙午歳三月より大堰川を浚す。先大石は轆轤索をもて牽之ヲ。水中にあるは、其上に高く足代をかまへ、鉄槌の頭尖りて、長さめぐり各三尺、柄の長サ二丈あまりなるに、あまたの索を結付、数十人して其槌を引あげて、直に落せば、巌石ことごとく砕けぬ。あるは、水より出たるは、其石の上にて大かゞりを焼て砕キ之ヲ、あるは、河広くして水浅き所は、石を帖て水を深くし、又瀑などあれば上をうがちて平らかにしつ。からうじて八月に至りてまたくなれり。かゝりし後、今に至るまで、丹波世喜村より嵯峨に舟かよひて、五穀、塩、鉄、材、石など有無を通じて、民大に利をうるとなん。十二年の春、又命を奉じて駿河の国富士川を浚ふ。此川もとも嶮流なれども、駿河の若淵より甲斐の国に船通ふことゝはなりぬ。よりて其辺の人々舼をみてあやしみかつ驚ていふ、魚ならずしてよく水を行クと。かの胡人の舟をしらざるに似たり。又十三年、信濃国天竜川をさらへて、諏訪より遠江の国掛塚迄舟すべしと命じ給ふ。則奇工をつくせども、きはめて浚流なればふね用ゐがたしとぞ。此年、洛東大仏殿造立あり。大木、巨石を運ぶに甚なやめりしかば、了以又乞て伏見の里より河に循ふて運送す。元来、伏水の土地、大仏の基よりひきゝ事六丈なりとて、其道すがら高き所をうがちてひきゝ所に堤をつき、又河のめぐれる所は轆轤索をもて是を引などせしかば、不日にして木石ことごとく達せり。見る人みなあやしまざるはなかりしとなん。十六年、又官に乞ふて鴨川に船を通ず、今の高瀬川是也。十九年、先にさらへし富士川壅て船のかよひなやめりしかば、了以をめし給ふに、了以たまたま病にかゝれりしかば、息、玄之をして行しむ。三月より役を初メて七月に成。時に了以病急なりときゝて、とみにかへりくるに、いまだ京にいらざるの前二日に歿せり。慶長十九年甲寅七月十二日也。享年六十一歳。此としの夏、嵐山に大悲閣を建立す。死に臨む時、遺言すらく、我肖像を作りて大悲閣の側に置き、巨綱をあみて座とし、犁を杖として石誌を建よと。後其遺教にしたがひ、碑文を羅山林氏にこふて建つ。其詞にいはく、 排シテ巨川ヲ兮舟楫通ズ。浮カビデ鴨水ニ兮梁如シ虹ノ。矧ヤ復タ鑿チテ富士河ヲ兮有ルヲヤ成功。慕ヒテ其賜フコトヲ玄圭ヲ兮。笑フ彼ノ化スルヲ黄熊ニ。嵐山之上兮名不シテ朽チ而無シ窮マリ。 寛永六年十一月日 (巨川ヲ排シテ舟楫通ズ。鳴水二浮カビテ梁虹ノ如シ。矧ヤ復タ富士川ヲ鑿チテ成功有ルヲヤ。其ノ玄圭ヲ賜フコトヲ慕ヒテ、彼ノ黄熊二化スルヲ笑フ。嵐山ノ上名朽チズシテ窮マリ無シ。 寛永六年十一月日)

(追記)

此一条、羅山林先生の碑文のうち一二をとりて訳せし也。猶かの碣誌に委し。往て見るべし。

因ニ云。息玄之、一の名は貞順、通称与一郎、後号ス素庵ト。惺窩先生にしたがひ文学に長ぜり。常に深衣を著して儒書を講ぜりとなん。羅山氏と交リふかく、かつ羅山氏、惺窩先生にまみえしも、此人の紹价なりとぞ。