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人物名

人物名僧 南谷 
人物名読みなんこく 
場所 
生年 
没年 

追記
人物名松下豊長 
人物名読み 
場所 
生年 
没年 
本文

釈照什、字南谷、幻華と号す。俗姓佐々木にして松下を称す。為リ人ト温潤恭黙、しかも沈勇也。寛文三癸卯年石見国吉永ノ里に生る。穉名勝之允といふ。纔に乳を離るより筆研を愛し、好みて字画をなすに頗ル奇趣有。父源太左衛門忠綱、会津侯に仕しが、前会津主加藤式部少輔成明朝臣。 後致仕し京師に在。長男豊長が為に官途を求んとて、豊長はた従者を引つれ、江戸に行。いくほどなく赤坂田町の旅舎にして不測の害にあふ。是、寛文九己酉の年三月廿一日の夜也。事故は豊長が附録にしるす。 時に師、年七歳。其後、豊長摂津ノ国芥川の駅にして復讐せし時は、師九歳也。豊長、京師を出る時、師もともに往んとこふこと頻也、しかども其幼をもて、豊長みそかに行く。報讎ののちに人もて其由を告るに、師聞て、此行にもれ、ともに天を戴ざるの仇をうたざることを深くうらみ、且かなしびていへらく、吾幼しといへども男児として士夫の道永く廃す。此うへは薙髪して釈門に入、父の冥福を祈らんの外なしとて、もとよりの因あれば、遍照心院、此地もと経基王の殿舎によりて六宮、或は八条御所などいふ。今の御旅所といふも満仲の産屋の旧跡也。其後、八条本覚禅尼、二位如実禅尼ともに、右大臣実朝公追福のため仏閣となし、木幡上人、真空律師を請じ給ふ。これによりて尼寺と俗称す。また安嘉門院四条局阿仏尼公の墳土もあり。 義洞長老にしたがひ、十一歳にして剃髪し、終に上足の弟子となる。多年思ひを精し心をひそめて、地蔵院覚雄一派の淵源を極めつくす。此間、詩章は熊谷直閑に学び、はた智積院泊如僧正、又峨山月潭禅師等にもとひ、専風騒にふけられしに、義洞長老、其学ぶ所釈門の要にあらざるを呵し給ひしかば、是より詩騒を止めて、永観堂快立和尚に従ひ楞厳の義疏をきく間、病にかゝれり。然ども猶つとめてやまず。諸経論を諸師にきくこと枚挙すべからず。年三十、法華の義疏書写の望を起し、山門の霊空律師について講録を需め、坂本の寓居にして全く書写す。通計八十巻也。時に山王の祭日にあひ遠近の人衢に堵をなす。しかれども師一室を不出デ騰写泰然たり。其勉強精苦おもふべし。此年はじめて多聞院にて梵網経古蹟を講ぜられしより、諸書の講に及び聴衆百をもて算ふ。かくて源廟経基王の廟なり。 の興復をもて志とし給へども、故ありて院を辞し、山門の外に一草庵を結び、幻華堂となづけ、堂ノ記及び退院の辧を著す。さて六年の後、元禄丙子のとし、満山の衆徒、師の宿志により、興復のため再任をこふこと頻なれば、又多聞院にうつり、惣代の任をもて江戸に往キ、時の権門松平美濃侯によりて廟の来由を記ルし、聞之ヲ。又明年丁丑九月、復古の宿志、古記等を写して呈するに、美濃侯曰、凡京師の寺政は京師にて達すべし、是恒例なりと。こゝにおいて頓に上洛し、京兆尹松平紀伊侯に事状を達す。此時、自誓の文を源廟に捧ぐ。其終リ、若シ時運未熟セば自ラ受ケ病ヲ速没シ、再来して願心を遂んといふに至る。神感の故にや、明年己卯十月、有司来り、廟社より門廡に至るまで一般に結構す。此月五日の夜、夢中にcxC0020012涼ヲ洗フ一枕ノ夢。蹈地ヲ窺ヘバ半窻明カナリ。といふ一聯句を得たり。自ラ趣味あることを覚ゆとなん。庚辰四月、六孫王に正一位権現の勅許有。関東よりも神宝数十品を奉納まします。十二月十二日、新廟遷座の儀式に勅使あり。辛巳八月廿八日、大樹君、六孫王権現の五大字を御みづからの筆して賜ふ。また水戸黄門光国卿も手状を賜ふ。

  六孫王御墳墓年久シク廃頽之処、今度新被ル加ヘ御修覆ヲ之由、珍重之事ニ存候。誠ニ源家ノ氏神、御孫々迄御繁栄ノ御事過グル之ニ御事御座有間鋪与、皆人一同奉リ存ジ候事に候。唯今迄は、義家一人被致サ信仰候とて、無益之八幡を源家之衆用ヰ来リ候。多田ノ満仲者、源家と申斗に而、御正統にても無キ之をさへ、多田院など御取立被レ成サ候。今度は各別之儀、如キ我等ノ愚老も、数十年ノ来積欝一時に伸ビ、披雲ヲ望天ヲ不堪雀躍、歓抃之至に候。為テ今度御礼ト、満山代僧遍照心院内、多聞院南谷法印下向之処、兼々愚老此義致シ苦労ニ候段、御聞及候とて、早速足下迄御申聞候由、事多之処、思召出過分に存候。終ニ不致サ書中ヲ候故、以テ謝状ヲ不申入レ候段、足下幾重にも宜御申聞可ク給ハル候。頓首 七月六日 光国 法眼立庵医伯 此後は親しく御面会も有けるが、直の御文書も大通寺にあり。

道体益御清勝ヤ否ヤ、馳ル遐想ヲノ而已。先比蒙リ御許借ヲ候文書、新写相済即本書返還、別而恭存候。且被レ仰聞エ候書容易ノ事、雖ドモ然ト当分衆中書立候。出来次第従リ跡差遣可ク申ス候。尚期ス他日ヲ。恐々頓首。

八月十五日 光国 遍照心院 豪慧和尚 猊座下 宝永丁亥四月六日、又命下り、稟米百石を賜ひ、祭祀の用となさしめ給ふ。又中古以来長老の職廃せしかば、古記を抄出し呈するに、戊子歳正月十三日蒙リ勅旨ヲ、義周をもて其職に任ぜしめ拝ス竜顔ヲ。これ満山不易の眉目也。又東林院を再造し、義洞の創地也。 山門の院秩をもます。かくて歳ふるまゝに、廟社やゝ頽廃に及ぶ故に、修繕の志を起し、又江戸におもむく。享保庚戌歳五月十九日、寺社司小出信濃侯より黄金を賜ひ、且命すらく、此金二分とし、一分は今後修葺の料とし、一分は子母の嬴余をもて後々繕修の用に充べしと。於テ是ニ廟社全ク善美を尽せり。壬子とし、又江戸にゆき、深恩を謝し、且新画弟子照本所図なり。 の神影を加納遠江侯に呈す。侯斎沐して掲壁上ニ拝スル之時、忽東隣に火起リて殆侯の第に及んとせしが、俄に西風吹て火を転じ、一点も触ることなかりしとかや。甲亥歳正月、太子降誕、桜町帝におはす。 博士御袍衣を納るの地を卜するに、此地、吉にあたれりとて、源廟の樹下に納奉る。是より長く勅願の基趾となり、五月十日、初て紫衣を賜ふ。師、後来不朽の例たらんことを願れしが、歳を経て志願のごとくに成ぬ。凡生涯の奔馳、満山の為にして毫末も身の為にはからず。丁卯歳の春、又東都に趣キ謁見の時、奏者、寺号をいはずして、たゞ南谷と称するほどの寵遇に至る。又寺官の第にして官紙を出し、大中字真草行、はた朗詠集などを書しめらる。其他、濡筆を需る人踵をつぐ。此歳の夏、職を辞し、次坐に托し、東林院にかくれ、たゞ終焉の計をなし、歓喜天の浴油供を修すること一七日、蓋シ従来の功業、此尊の加護によることをおもふと也。結願の日より病に罹、人に面接を辞す。たまたま法眼百々俊悦来て病をとふ。師いへらく、我病薬すべからず。然カも過訪を忝す。請フ診脉せられよと。法眼即チ診して、吁命也。実に薬治のおよぶ所にあらずといへり。一日、夢中源廟に至るに、かねて聞し兜率宮の荘厳のごとく也。かつ神、夷々子と呼給ふと見て醒ぬ。たゞちに筆をとりて、 陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家帰去ラバ。天朗ニ月清シ。 (陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家ニ帰去ラバ、天朗ニ月清シ。) 夷々子辞世、と記し終て弟子にいへらく、我今、筆をとるに扛杵のごとし。しかれどももし社事によりて大君われを召サば、元気忽チ復し、千里も遠とせずしてゆかん。吁時ナル哉。吾功も亦あたれりとて、是より言語を不交ヘ。源廟をはじめ、常に仰給ふ所の神社を拝し終り、端坐して寂す。春秋七十四。元文元丙辰歳十月十三日午時也。師、生涯三帝の恩勅を蒙り、竜顔を拝すること数箇度、東都に行ことは前後三十九度、四大君の寵遇を忝し、加之、月卿雲客、又三家以下、国主、諸侯、旗下の士の帰依挙ゲ記すべからず。然るに謹慎の甚しきは、京兆尹来過の時は、前日必告給ふにより、師丑ノ時より起て日課の事尹を勤、寅ノ刻に至れば三衣を著て端坐す。毎時如ク此ノなれば、徒衆、なぞさはし給ふととふに、上ミを敬するはかくすべきことなり、と答られしとなん。晉ノの趙盾が所行に淮ふべし。世に師の書名をしりて其功を審らにするもの尠ければ、彼等の記をもて要を採て録す。手沢の書、刻につくものは、楷書千字文五冊、克己銘一冊、八景法帖一冊、大通寺開山宗師行業記一冊、幻華消息一冊、以上印行。 又詩稿許多あれども其志を見るべきものを挙グ。 客中、早春ノ試毫 江城為リテ客ト始メテ逢フ春ニ。且ツ喜ブ聖朝ニ寓スルコトヲ此身ヲ。 山衲素ヨリ無シ衣錦ノ志。只期ス神運ノ与ニ年ト新ナランコトヲ。 (客中、早春ノ試毫 江城客ト為リテ始メテ春ニ逢フ、且ツ喜ブ聖朝ニ此身ヲ寓スルコトヲ。 山衲素ヨリ衣錦ノ志無シ。只期ス神運ノ年ト与ニ新ナランコトヲ。) 上堂日、寄ス二三子ニ 樗木従来不足ラ量ルニ。山僧何ノ幸ゾ主タル僧綱ニ。 大塊仮ス我ニ椽柱ノ力。他日儻堪ヘン為ルニ棟梁ト。 (上堂日、二三子ニ寄ス 樗木従来量ルニ足ラズ、山僧何ノ幸ゾ僧綱ニ主タル。 大塊我ニ仮ス椽柱ノ力、他日儻棟梁タルニ堪へン。)

(追記)

附、松下助三郎豊長後故有て母家の姓を冒し、中瀬助九郎といふ は、南谷の兄也。父忠綱、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、  我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。

其後、豊長京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざることをうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の従者、坂根八左衛門、中田平次右衛門。 をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。蒿蹊云、俗間に野叢談話といふものあり。それが中に華塵談とて、此復讐のよしを書り。されど文飾多く、かつ事実も大同少異也。今、寺記によりて其要のみをしるす。