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人物名

人物名芥川貞佐 
人物名読みあくたがわていさ 
場所 
生年 
没年 

本文

貞佐は、備中笠岡丸山久右衛門といふ人の子にして幼名河吉とよぶ。為リ人卓犖不覊にして奇才あり。幼より諸芸に心をよせ甚頴敏なれども、必其奥秘を極んともせず。されどもかりにも吾師とたのみたる人をば尊崇し、一小冊に其教の旨趣を委く筆記して他日の遺忘に備へ、これを乞食嚢と題す。それが中の要を挙るに、弱冠にして東涯先生に親炙し、親義別序信の端をきく。飛鳥井家にまうでゝ蹴鞠を学び、紫下濃を免るにおよぶ。四条家に随ひては鯉鶴の庖丁までを伝へ、礼家によりては食饗の式粧を知る。三絃は野崎撿挍の門に遊び、尺八は明暗寺の徒にとふ。其余、茶、香、囲碁、双六、乱舞、連俳、狂歌、ト筮の術等わたらずといふことなし。唯立華と恋のみちばかりは未師匠なし、と其末にかけるもをかし。中にも狂歌をこととし、浪華の由縁斎が流を伝へてよに用らる。其始、遊芸に長じ家産に疎く見えしかば、父しばしば諫れども用ざれば、せんかたなく勘当す。其時、親族のはからひによりて、父より金弐百両をあたへぬ。かくて播磨明石の辺にさまよひ、あるひは傭人となり、又団子菓など作り売て月日を送りけるに、其人がらいやしからねば、いくほどなく其所に親しみ出きて、ある別業の番人となりける。或夕つかた、主客とも蹴鞠せしとき、鞠垣の外に落しに、貞佐は其ほとりを掃除して居ければ、あるじそれそれといふ。こゝろえて垣の外にてまりを蹴て高足し垣の中心に蹴入たる、其有さま甚うつくしければ、皆眼をおどろかし姓名をとひけれどもあかさず。又ある時人々碁を囲みけるに、傍よりけしからぬ助言しければ、碁を嗜むことも人にしられぬ。其後狂歌など折々綴り、遂に彼別業の留主居となり、茶の指南をもして、先生と呼たうとまれけれど、それも倦けるにや、上がたへ登り、大津わたりにて旅人の荷をかたげ、宿も定めぬ雲介といふものにもなり、あるは代神楽の長持をももち、其外さまざま変化してありきける間、大坂にてある家の炊夫を勤るとき、主の子息鼓を打けるに拍子合ざりしかば、おもはず手拍子して其間は何の文字にあたりてなどつぶやきければ、其いふまゝにうちたれば果して安かりけり。是によりて其人がらゆかしく、委くやうすを問けれどもかつていはず。こゝも暇を乞捨て出、又こと所に同じく炊夫にて居けるに、ある夕つかた其牙人をあないにて、見ざまよき男入来りてあはんといふまゝに、釜の下を焼居て長火箸持なから出て対面しければ、父、丸山氏の手代也。此人のさまかはりたれば、おどろきてこはいかなる御ことぞ、過しより方々を尋ねめぐりし子細は、父上より勘当をゆるし召帰されんとのこと也。直に帰国の御供せんと誘ひけるに、其家牙人も其人がらをしりて詞もなかりける。さて、本国へ帰りて親類のもとへ落着、ほどなく本家へかへりし日、一門集りたる中にて、父久右衛門出て、汝、年月の艱難に性根も定りつらんと、親族の佗により勘当をゆるしつる也。まづたづぬべきは家を出し時あたへし二百金は如何せしぞ、といへるに、其儘懐より取出して封の儘戻しければ、傍の人々は皆奇とするに、父ひとり不興気にて、汝其艱苦の間此金は如何してもちたるやと詰る。こたへて、或時は土中に埋み、又は床の下、人の心つかぬ所に蔵し置てかくのごとしといふ。父忿りて、汝いよいよ勘当の許されまじき者也、といふを、親類みなみなあやしみて、かく迄苦心の間に此金を失ざるは奇特におぼゆ。何故かくは仰らるゝぞといふに、父、いな、金は町家におきては城廓鎗刀のごとし、其大切なる金を取放て置るは、大将の城をあけて遊行せるに同じ、身を保べきものは左にあらず、と大にのゝしりければ、閑田子いふ、此説いぶかし。此人の金放ち置は、人に盗まれ、あるひはうたがはれまじきため、又其金をつかひ捨てぬは、全きながら父にかへさんがためにて、身は艱苦を経ながらつゝしむは、其生質の清によるべし。されども此父の意をもていはゞ、商人は金を殖すをつとめとすべきに、いたづらにかくして置て身を立ることをしらずとは叱すべきにや。おそらくは伝聞の誤ならん。 一類もいはん言なく、唯一筋に佗て、後来の心得などかたくいましめけるによりて免しぬ。其後、元銀をあたへ別屋をまうけ造酒の業をなさしむるに、元来無欲にして慈愛深き質なれば、人に物を与ふるを惜まず、奴僕をも呵責ことをせねば、彼者どもはよきことにして、明くれ酒を汲、遊興しけるにより、家業保ちがたく、本家にかへり、父の家を相続して、一旦久右衛門と改名せし折から、安芸広島なる芥川孫右衛門より、其家柄を望みて舎弟某を養子に乞けるに、汝は家を継べし、われゆかんとて、其儘返答に及び、つひに広嶋へ至り其家を受継ぎ、久五兵衛と名乗り、家父の勤ける坊間の長役をも継ギつとめける。其歳三十歳也。後家父死して例の貨を惜まず、或る時は人に謀られなどもしけれど、物とも思はず。かゝる気象なれば上の御覚えは大方ならず、あるは莫大の恩賜をも蒙りしとぞ。やゝ老て備中実家の姪を養子にし家を譲り、明和の初、二月望、仏滅日に髪を剃り、さて遠く旅立よしをいひて実は禁足していでず、同じき卯月仏生会の日、別荘に退き、貞柳より譲たる又生庵といへるを閑居の号とし、弥狂歌をもて楽みとし、門人も又千余員に及ぶ。又良薬妙方を調して施し、謝を求ざれば他邦にも聞えて乞者多く、あるは薬方を伝へて弘むるも有とぞ。安永八丁亥歳正月廿一日病て歿す。行年八十一。狂歌の撰集多し。辞世は、

死でゆく所はをかし仏護寺の犬の小便する垣のもと

竜源山仏護寺といへるに葬ればなり。