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人物名

人物名北山友松子 
人物名読みきたやまゆうしょうし 
場所豊前小倉藩 
生年 
没年 

本文

友松子は北山氏、通名寿安といへり。長崎の人、唐人丸山の遊女に会して産る所也といふ。医をもて出身せしとき、その系図をとはるゝに、たゞ長崎遊女の子とのみ書付て出したる器量を世に称せしとぞ。其徒の記せるをみれば、其為リ人ト名を名とせず、利を利とせず、能善をよみし、能悪をにくむ。性仏乗を好み、癖活人を嗜む。是をもて鼎湖の神書を閩の浮屠に授り、長沙の心法を淅の異人につたへ、日に惟ひ夜におもふこと三年、心融、疑釈ケ、求に随ひて治を施すに、効験桴のごとく応ず。いまだ三十ならずして洛に至り、諸国の諸侯のため賓をもて優待せらる。又黄檗の開祖、及即非、高泉の諸大老贈言して美せらるといへり。その著述をみるに、実に博学強記なるがうへに、治療の才、前後その類稀なれば、其徒の記せる旨、私せるにはあらじ。凡当時は医名ある人といへども、東垣、丹渓の窩窟をいづることあたはざる間に、独り長沙の長ずるを規範とし、下モ明末の諸家をも採りて、佐使とす。其言ニ曰、如シ為メニ人ノ治療スル。則チ不ル可カラ不ル全ク読マ仲景之書ヲ也ト。(モシ人ノタメニ治療スル、則チ全ク仲景ノ書ヲ読マザルベカラザル也ト。)又文字の格法を明にせる所は、増広口決集に、中山三柳の文章文字を改正せしに見ゆ。加之、多能にしてト筮、風鑑、地理、星命の学のごときも、門人の才を量て是を誨とかや。或は医人と商量スレバ、則チ告グル之ニに親疎を不別タ、其非を見ては、人に不譲ラ、覿面に辨明し、其誤りを聞ては、含湖に不忍、驀直に討論す。唯此人に補なくして、方寸に愧ることを恐ると也。故に世医或は狂とし、或は直とし、且ツ誉メ且ツ毀とかや。門人の請によりて所著ス、刪補衆方規矩、評議纂言方考、増広口決集等、皆四十未満の所為也。後又、方考縄愆あり。凡著述、他の書によりて吾意を述るものにして、一家の成書なし。是即一家の所立なるべし。尚此人の生平につきて、聞伝ふる話も多けれど、疑しきをもてこゝに録せず。

図版