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人物名

人物名安藤年山 
人物名読みあんどうねんざん 
場所丹波桑田郡千年郷小口村 
生年 
没年 

追記
人物名安藤朴翁 
人物名読みあんどうぼくおう 
場所丹波桑田郡千年郷小口村、京都 
生年 
没年 
本文

年山安藤氏、諱ハ為章、初名為明 通称新介、初は右平 本国丹波千年ノ山なるをもて自ラ年山を号とす。其兄内匠為実と共に儒を学び、父の由縁をもてともに伏見ノ宮に仕ふ。後又同じく水戸に参りて、彰考館の寄人にて、日本史、及礼儀類典の撰にあづかる。兄は七百石、弟は三百石を賜ふ。兄の人がらはよく知らず。為章は国学をも好み、詠歌は中院内府通茂公御門人なり。源義公、僧契沖に万葉の註を求給ふに及びて、命をうけ、しばしば浪花に至て其説をうく。されば契沖の行実を著して、其著書、年山打聞に記せり。今此冊子に取れる所なり。凡此打聞のうちに著所をもて、其学術も、人となりの温恭もはかりしらる。又紫女七論を出して、式部の賢操才秀を褒め、源氏物語の大意をも委しく論ず。をしむらくは梓にのぼらざれば見る人少し。其歌集を千年山集といふ。尤此人に於て挙いふべきは、家禄を益賜らんの命有しとき、産子なきをもて辞し、終に他姓を養はず、身歿して家も又絶たりとなん。人のなしがたき所にして、吾天を安ンずるの節義称すべし。兄の家は今猶彼府にありて、子孫相続とぞ。子なきをもて禄を辞せる一条は、丹波出雲社司其族にて語るところなりと。

(追記)

其父朴翁、初伏見ノ宮に仕ふ。致仕の後、祖父の故址をもて、千年山の麓、尾口村に隣て抱琴園を修理し、老を安ンず。山家の記といへる一篇、年山打聞に出ヅ。かなにて文章いとよし。陶靖節を慕ひ、帰隠の図を自ラ壁上に画き、其集を左右にす。又仏理に参じ、且楽を好む。祖のとき其図に八つの景を名付しが、荒行所も見ゆるにつきて、是をも自うつして子孫のために残すとて、

ちとせ山八のさかひを写絵の是だに残れ問人のため

考かく凡人ならざりしかば、息兄弟の傑出せるもむべなり。